
大多喜町久保、桜台、新丁地区
大多喜城下の中心部を「根古屋(ねごや)七町」と呼び、大多喜街道に沿って北から紺屋(こんや)町・田丁(たまち)・猿稲(さるいね)町・久保(くぼ)町・桜台(さくらだい)町・新丁(しんまち)・柳原(やなばら)町がつくられています。
天正18年(1590)本多忠勝が大多喜城に入ると城下町を整備していきますが、現在の町並みがととのったのは、江戸時代の前期頃と言われています。元禄年間に作製されたと考えられる城下絵図には整備された町が描かれていて、大多喜街道は横山新坂(にいざか)から町へ入り鍵形の道となって城下町を抜けています。また本多氏時代の人口はロドリゴの「日本見聞録」に1万2千人余りとあります。
商家の多い新丁・桜台・久保町は町の中心であって、旅籠も軒をつらねていました。町を取り囲むように夷隅川が流れ、川沿いには20余りの寺社が点在していました。
明治時代になっても夷隅郡役所が置かれ、この地域の政治・経済の中心でありました。俳人正岡子規らも房総のたびの途中に一泊しています。また城下周辺には、中世から栄えた仏教文化の遺産を数多くみることができます。
城下散策マップ